過去の改修事業について

〔大氾濫を繰り返してきた大河〕

▼明治までの治水

阿武隈川は、古来から大氾濫を繰り返してきた。そのことは、大きく広がる扇状地を見ても、さらに現存する地名や住民の手記を読むことによって伺うことができる。藩政時代の氾濫としては、寛永14年(1637)、永宝8年(1680)、元禄14年(1701)、享保8年(1723)、文政7年(1824)、天保2年(1821)などが記録に残っている。河川改修においても当時は調査計画等は行われずに、洪水等の災害が原因となって行われた。

特に福島、二本松、白河、三春等については、仙台藩の占城、角田城主・石川氏における宮城県下流部の記録が残っている。まず挙げられるのは、寛永14年(1637)の大洪水があった同15年、将軍家光に工事補助を請願し、幕府より銀子500貫目を下附、また仙台藩から人夫の貸与を受けて16~18年までに東町・江尻間の堤防を築造。寛文1年(1661)、丸森町の岩床の破砕に着工、さらに数度となくおこる洪水の被害を軽減するために、新川掘削を計画し、寛文4年(1664)には賀川掘削、嘉永4年(1851)には梶原新川掘割を施工した。

さらに河口では、仙台藩が水流を良くするために、普請肝入を設け補修すべき箇所に沈床を設置している。これに用いた石材は名取郡南長谷深山から産出したものと記されている。宮城県治水改革史によれば、岩沼城古内主膳は阿武隈川に対する予防工事を起こしたり、五間堀を改修して水利潅漑とともに名取耕土に対する防水築により常から水防に心を砕き、年2回は城外の岩沼(古くは大池)沼洗と称して、部下や農民を指揮し水防の訓練を試みたと伝えられている。

〔近代河川事業の幕開け〕

▼明治時代の治水事業

明治は、幕藩体制から近代統一国家体制へ移行し変わっていく時期であり、当時の内務省が低水工事と砂防工事を中心としていた。特にオランダ技術の導入により治水事業を計画的に実施することが可能となり、これが近代河川事業の黎明期と呼ぶことができる。

明治5年、オランダ人ファン・ドールが来日。彼の立案と指導により、明治7年、淀川を皮切りに阿武隈川は同17年に直轄工事に着手した。この工事は、宮城県丸森町から河口までの低水工事で舟運の便を図ることを目的としたもので、同35年に完成した。

その後、明治14年、18年、22年と洪水が続き、18年の洪水を契機に19年、わが国で初めて築堤方式による高水工事が木曽川で施工された。

阿武隈川は、明治43年の第一次治水計画では、第二期施工河川で採択され、支川荒川では、明治43年の土石流による大洪水を契機に、玉石三面張の堤防が築堤。阿武隈川における直轄工事が始まったのは、上流部では大正8年以降、下流部では昭和11年以降となる。

〔何度も襲いかかる洪水と戦う〕

▼大正から終戦まで

阿武隈川は、第二期施工河川で採択されたが、内務省直轄の阿武隈川改修事務所が創設され、福島市内に事務所を設置して本格的改修工事に着手したのは、ずっと後の大正8年だった。

改修計画は、本川筋は伊達、福島、本宮、郡山地区において堀削、築堤、護岸等を施工するものであり、特に郡山地区において大規模なショートカットが計画された。支川荒川では低水路工事及び霞堤が計上、当初は約640万円の予算が算出され、大正8年から昭和8年までの15ヵ年計画として提示された。

しかし、その後昭和16年7月に未曾有の大洪水が発生し、その被害は甚大となったために、昭和17年に第1次流量改訂を行い、基準地点福島における計画高水流量を4,400㎥/Sとした。改修計画は一部変更され、伊達、福島、本宮、郡山地区において掘削、築堤、護岸等の計画を行い、本宮地区では狭窄部堀削部が計上された。

掘削を数字で確認してみると、郡山地区で約340万m、支川荒川で66万m、福島地区で約240万m、合計で約646万mとなり、昭和10年頃の当時としては大工事で、花形機械だった短梯掘削機、20トン機関車、米国製のドラグラインエキスカベーダー等が投入された。

このように、阿武隈川上流部における治水事業は大正8年に国直轄で進められたが、これに比較し、下流部に位置する宮城県内は、何度も襲いかかってくる洪水の脅威にさらされ、沿岸平野は莫大な犠牲を何度も被った。その後ようやく、地元の熱烈な要望に動かされ、上流部改修工事着工の18年後にあたる昭和11年、改修工事が着工した。

河積の確保のために、拡築、掘削、堤防法線の修正等を目標に、築堤は丸森~河口の約37㎞にわたって昭和12年度より本格的に開始され、都市部にあたる左岸堤を重点として進行。また掘削は築堤土量見合いで、ネック部の低水路拡幅が実施された。

〔一級河川として生まれ変わる阿武隈川〕

▼戦後の改修計画

昭和20年9月の枕崎台風、続いて21年10月の南海地震、22年9月のカスリン台風、23年9月のアイオン台風と戦後は洪水が相次いだ。建設省では昭和22年「河川改修五箇年計画」、23年に「治水五箇年計画」、24年「治水十箇年計画」と続けて長期計画案を発表したが、財政事情により正式の決定はなかった。

さらに建設省は昭和30、31、32、33年と毎年「治水事業5ヵ年計画」を作成。35年度には適確な現実を図ると決定した。治山、治水緊急措置法が昭和35年3月に制定を果たしたのだ。この施策は、近年の激甚な災害や産業経済の発展に伴う諸用水の需要の急増の事態に鑑み、治山治水事業は、昭和35年から長期計画を策定し、計画に推進していくためのものだった。

阿武隈川においては、昭和22年9月及び23年9月の大洪水により全川にわたり再検討を行い、昭和26年に計画高水流量を岩沼6,500㎥/S、福島4,500㎥/Sに改訂した。また基準地点福島において1,500㎥/Sに改訂し、昭和28年度以降総体計画を樹立。伊達、福島、本宮、郡山地区において掘削、築堤、護岸等を計上し、さらに支河滝川、谷田川等も区域延長された。

下流では第一次改訂計画流量を基に昭和38年度以降の総体計画を樹立。計画高水流量の疎通と舟運の促進を図るために、掘削や築堤を施工した。昭和40年度は新河川法が施工され、阿武隈川は昭和41年度に一級河川の指定を受けたが、内容的には昭和38年度以降の総体計画をほぼ踏襲したものだった。その後二本松、須賀川地区が区域延長された。

昭和33年9月、昭和41年6月等の出水や流域の開発状況を鑑みて、昭和49年には工事実施基本計画の改訂が行われた。内容は基準地点である岩沼において基準高水のピーク流量を10,100㎥/Sとし、これをダム群によって1,500㎥/S調節し、計画高水流量9,200㎥/Sとする計画の策定となった。

河川利用については、農業用水として約40,000haに及ぶ耕地の潅漑に利用され、水力発電として明治8年に建設された庭坂第一発電をはじめとする発電所で有効な電力の供給がなされている。

阿武隈川水系における河川の総合的な保全と利用に関する基本方針としては、河川工事の現状、砂防・治山工事の実施、水害発生の状況及び河川の利用状況や河川環境の保全を考慮しながらも、関連地域の社会経済情勢の発展にも即応し、東北開発促進計画、仙台湾地区及び常磐・郡山地区新産業都市建設基本計画との調和を図り、かつ土地改良事業などの関連工事及び既存の水利施設等の機能の維持を十分配慮して水源から河口まで一貫した計画のもとに工事を実施した。

〔新しい未来に向けて〕

▼現在の治水事業

現在の治水事業は、第9次治水事業七箇年計画の基本方針に基づき、実施されている。特に国土総合開発の一環として河川にダム等の流水を貯留する施設を設けて洪水調節を行い、下流の洪水被害を軽減するとともに、貯めた水を発電等に利用できるのが多目的ダムである。
阿武隈川では、下流部の支川白石川筋の七ヶ宿ダム、支川大滝根川筋の三春ダム、上流部の摺上川ダムが完成し、さまざまな角度から期待が寄せられている。

また、阿武隈川の流域には約140万人の人々が暮らしている。平成10年に発生した「平成10年8月末豪雨・台風5号による災害」では阿武隈川沿川に大きな被害がもたらされた。それを受けて、福島工事事務所では、総合的な河川改修と改良型災害復旧を総合的に実施する「阿武隈川平成の大改修」に着手し、築堤や護岸の整備はもちろんのこと、コンクリート護岸の覆土緑化、多自然型工法の導入など環境面にも配慮した事業に取り組んだ。

※平成の大改修について、詳しくはこちらをごらんください。
 ⇒ http://www.thr.mlit.go.jp/fukushima/heisei/index.htm

 

なお、現在は19年3月に策定された「阿武隈川水系河川整備計画」に基づき阿武隈川の整備を推進しています。

※阿武隈川水系河川整備計画について、詳しくはこちらをごらんください。

 ⇒ http://www.thr.mlit.go.jp/fukushima/kasen_seibi/04_keikaku.html

 
出典)「阿武隈川 洪水記録写真集」、建設省福島工事事務所(現 国土交通省福島河川国道事務所)、平成12年3月、184-187ページ

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